去る者は追わず来る者は拒まずと言う名の怠け者。

どちらかといえば内気でインドアな性格なので、友人もそのような人たちが多い。

恋人もフットサルをやっていないタイプがいい、と言い切ってしまうような。私はどちらでもいいのだけれども、もちろん運動も部活も(体験入学時になぜ1つ年上なだけのひとにボール拾いなるものを命じられるのかがわからなかった)やってこなかったし、とても優秀な帰宅部員だった。

でも社会は広く、生きているとコミュニケーション能力がすこぶる高い、と言うかおそらく部活なる世界のなかで時間を過ごしたひと(なので本人の努力によるものが大きいと思う)に出会って話すとき、ほんとうに驚いてしまう。

初対面で引き出せる情報の多さ、垣根の飛び越え方、失敗したときの恥ずかしそうな笑顔(いわゆる愛敬)、体力面や精神目のタフさ、そしてなにより仲間と結束することに喜びを見出すというところが共通していると思う。

私にはないものを持っているその人たちは、気軽に連絡をくれてご飯に行ったりするけれども、私がもっとも苦手とすることを社会人になっても求め(何かの催しでの出し物、およびその練習に終電まで取り組む)、その枠内にいようとするのが不思議で、正直なところ本人が好きであればよかったね、としか言えない。

「遊べるのもいまだけですもんね」

お酒も3杯目で最後のカルボナーラを食べていたときに出た言葉。「そうかなぁ」と思わず言ってしまった。遊びたいのであれば、どこにでも行けばいいしそれは本人以外止めることはできないし、限定する必要はないんじゃないか。その人は少し首を傾げて「そうですね」と、終始にこやかだった。

別の日、友人と話しているときに「それは本人たちの自由だ」と諭されたことがある。

私はどこに行くにも二人連れ立っている人たちは、一人では何もできないんだろうか、ということを言った思う。それは本人たちの自由。それもそうだ。

生物のなかでも人数が多い人間という生き物はどこかのグループに属すると安心する。それもわかる。けれども、昨今の「それ以外の意見は受け付けない!」を嫌っていたわたしが、まさにそうなっていた。そのときははっとして、食べていたパンケーキが縮んでしまったかのように思えた。(おいしくって食べるスピードが早かっただけなのだが)


だから、私はできるだけいろんな人に会って、話をするとき否定的な立場ではいないでおこうと思うし、もちろん議論を発展させたい場合は「それってどうなの」を発するが、基本「あなたはそういう考えなのね」で終わり。それでいいと思う。否定か同意を必ずしなければいけない、ってわけでもなくただ「そうなんだ」で終わらせるのも聞いているよ、になるんじゃないかな。

今年は、追いかけたい人を俊敏に追っかけられるようになりたい。




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